24.1.26【困っている人の力になりたいとき。】_寄り添い:パラドックス(本論1:支援)

この歳になったら量より思い出_分け合う手作りチーズケーキ

そんな“相応しい支援”として、考えた結果出たわたしなりの答えは、”募金”でした。
…その行いの“相応しさ”を測るために、どんな風に“なりたくない”かという対極からスタートすることにしました。

※記事をお読みになる前に※
令和6年能登半島地震について触れています。扱いが難しく細心の注意を必要とする話題だと承知しております。しかしながら、至らなさや配慮不足ゆえの拙い文章が多々散見されると思います。恐縮ですがご気分を害される恐れがおありの場合は、お読みになる際は十分ご注意
ください

 あの悪夢からもうすぐ1か月が経とうとしています。ようやく月内にほぼ電力に関しては復旧する(孤立地域は除く)との話を耳にしました。素人の感覚ではあの凄惨な光景にもかかわらないもの凄いスピードを感じますが、これでも同期間が1週間程度だった東日本大震災など他の震災のときと比べれば見劣りする事実に驚きました。やはり道路の寸断など土地柄独特の背景が影響を及ぼしたようです。

 一方、わたしたち家族は電力どころか、全ての面において元通りの生活と言えます。同じ地震に被災した者同士ながらここまでの差がでることには考えさせられざるを得ません。以前の投稿に引き続きのテーマです。そんな今わたしたちに“相応しい”行い、まだ従来の生活に戻れない方々に対する“寄り添い”について考えました。

ニュースで報道される方々も報道されないながらも被害に苦しむ方々も、共に求められるのは支援に尽きるでしょう。個人レベルの力では再起不能と言える状態、もう誰かの手を借りなければ生活がままならない状態。これから生きていくための裁量権を大幅に奪われることの喪失感、憤りや虚しさを思うと、胸を締め付けられます。わたしにとってはがん(癌)に冒され全身の自由を奪われたときの感覚がフラッシュバックします。自助の精神はもちろん根底にあってこその強さです。しかし、言うならば壊せる可能性のある壁というよりはなす術が見当たらない崖といった感覚に近いでしょうか、物理的な絶望に立ち向かうにはやはり周囲からの支え無しには困難を極めるでしょう。

そんな“相応しい支援”として考えた結果、わたしなりの答えは、”募金”でした。「…いや、普通かっ!」と一喝されそうな結論です。おっしゃるとおり、お金を送るというあの一般的な募金に違いないのですから。ただ、一周回って考えたことで、得たこともありました。その道のりを書きたいと思います。

募金は支援であり、わたしが思うこう“なりたい”ことです。その行いの“相応しさ”を測るために、どんな風に“なりたくない”かという対極からスタートすることにしました。
(※あくまでわたしの個人的な意見です。同じでない方を批判するつもりは全くないです。なぜならば、どんな形であれボランティアは自分自身の幸せのためのことと考えるからです。※詳細を書いた過去投稿はこちら。)

・その1:今まで通りor普段通りのことを一生懸命やりたい、で終えたくない
シンプルです。それでは以前と何も変わらないからです。つまり、困っている受け手とっては何も新しい実益(支援が形として)がないということです。あの方々に直接支援について伝える機会があったとするならば…と考えたとき、面と向かってそのようには言えないなと。何らかの行動や形として当事者にリアルの変化がなければ、同じ変化(苦しい現実)には対応できないのではないのではないでしょうか。わたしを死の淵から救ったのは、「抗がん剤」です。間違いなく比類ない数多の善意と努力と愛情に惜しみなく恵まれました。そんなある日にチューブで静脈へ直接投与されたのがアドリアマイシンです。言い換えると、たくさんの人々の温かみを享受した幸運だけでは今生きていないのです。その幸運のおかげで訪れたリアルな変化、注ぎ込まれたあの真っ赤な液体無しには、わたしのがん細胞の活性がタイムリミットまでに止まることはありませんでした。考えるとぞっとするシビアな経験でしたが、これらが現実でした。

・その2:やることが子供の“お手伝い”レベルの(=実益が乏しい)支援になりたくない
ふと、わが家のキッズ達のお手伝いのことが頭をよぎりました。彼ら彼女らのような純粋無垢な思考であれば何かヒントが無いだろうかという魂胆です。そして得たことは、“大人の支援”でないといかんな、です。例えば、卵割りお手伝いを想像してみてください。さて、あなたは料理中で時間を気にしながらいろいろな作業に追われています。「お手伝いするよ!卵割りしたい!」とやってきました。助けてあげたいお手伝いしたいという素敵な気持ち、素晴らしい子達です。(んーまぁ忙しいけど断るわけにもいかへんしなぁ…?)。早速卵を手に取ります(が、ちょっと待て。その前にトイレの後お手て洗う手順はちゃんとしているかい?)。そして狭いキッチンに潜りこんできます。(いやいやそこは作業中で来られると他の作業が止まるんだが?)。「えー僕がする!(弟)」(おいおいケンカしないで…というかちょっと力加減ができない弟ちゃん、その作業はあなたには適してないのでは?)。卵がパカ、黄身と白身とカラがぽちゃんっ(ぎゃー、いきなりカラも一緒に入ってもう取れないやん!逆に手間増えるからストップして?)。…そしたら卵はもういいから、代わりに混ぜ混ぜしてもらおうかな~!「えー、卵割りじゃなきゃヤダー!!!」(正直、卵割でも混ぜ混ぜでもなく、洗い物というこちらの作業の方が助かりますが?)。「あ、テレビ始まったから卵割りあとでやるー!置いといてねー」(…今、してもらわないと間に合わないのよ?)。我が子なので、もちろん家ではこんな風には思わないですよ?(笑) ただし、現実はお互いのことを何も知らないドライでシビアな大人で赤の他人同士の話です。純粋な気持ちで始める支援とは名ばかりで、受け手の実益に乏しい事態にはなりはしないか。おせっかいどころか迷惑になっていないか。迷ったらやれで失敗しちゃった、ごめん!を許容できるゆとりが先方にあるだろうか。いくら美しい正義があれども、受け手にとっての本当の(実益のある)支援や寄り添いには気持ちだけではなれないのだと痛感しました。

・その3:自己満足だからこそ支援の実益ができる限り大きくなる術を考えたい。
3000万円もの大金を募金されたという芸能人のニュースを聞きました。なんて素晴らしい行いかと感銘を受けました。その人にとってその金額はサクっと払えるポケットマネーの額なのかもしれません。ただ、受け手にとってはそんなことはどうでもよく、家が建つほどの大金なのです。それに比べれば満足に働けもせず、貯蓄と家計と相談しながらの微々たる金額では、実益と苦労のどちらも無意味なのかな…と思ったタイミングもありました。そんなときにふと、ところで支援はいつ終わるの?と思いました。それは受け手がもういいですと言うときであり、裏返せばそれまで続けないとゴールにたどり着けないということです。ある記事には見込まれる復興費用に8000億円(24.1.26の記事では資本ストックやインフラの損壊額で1.1兆円〜2.6兆円)とありました。例えば復興完了の日まで続く毎日の生活費は、そちらに含まれているのでしょうか。いずれにせよ、額はもちろんですが支援には継続性が必要で、それは受け手の実益が小さいならばなおさらだということです。1か月の飯代でも毎月すれば1人の人が餓死しなくて済むのですから、継続すれば十分に実利のあることも実現可能だったのです。

・その4:とりあえず、これやっとこ!で始めたくない(中途半端に打ち切りたくない)。
人が驚くような額には恐らくならないでしょう。にもかかわらず、たかだかその程度の募金をするだけにどうしてこんな具合に考えたのか、についてです。その3で触れたようにわたしができる支援の規模の小ささをカバーするには、代わりに継続性が重要です。こちらに気づいた段階で、このその4の内容を強く意識しました。先ほどから書くように気持ちだけではなかなか人を救うに値しませんが、気持ちで自らの行動は変えるきっかけになります。さっそく生涯設計、運用資産、家計簿たちの見直し会議が妻も交えて始まりました。行動が受け手の方の実利のためにも、行動を途中で止めてしまうのはとっても残念です。そのため行動継続の原資となるモチベーションを維持して、わたし自身が納得感の先に幸せを感じられることが前提となるようにしました。

本当に、赤い羽根共同募金でさえろくな募金をしなかった輩がよくもまあ…と。(笑) なお、今回をきっかけにお金の側面で気に入る点が多々あります。受け手のニーズに合わせて自在に姿(や用途)を変えられる点、誰が送り手でも価値が変動しない点、それがアドバンテージを体に持っていても適応される点などなど…。じぶんのできることは目の前、手の届く範囲の人からだと、“寄り添い:パラドックス”を思い立ったが吉日とします。
次は、地震関連で感じた災害時の”行動自粛”、“備え”について順に書こうと思います。

今日もお付き合いいただきありがとうございます。
ではまた。
 

 
 

投稿者:

buoyutto_jin

For. My Reader... 1990年生まれ/神戸出身/心身ともに男性/4人家族子供2人(男女比2:2)。 家族からの呼び名はダウアン。(キッズ達により命名) 社会人9年目の2021年にうつ症状で休職2か月。再発対策でブログの開設を思い立ちました。回復して働き出すも束の間、まさかの翌年6月に5年生存率15%以下の希少癌が発覚(ブログに記載あり:My Home Is Sweet.)。以後、闘病生活にいそしんでいます。 それでも、わたしは幸せです。日々幸せは心の持ちようでいかようにも決まります。そんなわたしの心の軌跡をここに書き残します。   For. My Family... いつか読んでほしいけど、本当は読んでほしくない。 読まずとも幸せに過ごす毎日を願って綴る、未来の我が子へおくる父のバイブル。

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