強さの源が何なのか、…それは、
わたしは“生かされている”という感覚です。
※記事をお読みになる前に※
令和6年能登半島地震について触れています。扱いが難しく細心の注意を必要とする話題だと承知しております。しかしながら、至らなさや配慮不足ゆえの拙い文章が多々散見されると思います。恐縮ですがご気分を害される恐れがおありの場合は、お読みになる際は十分ご注意ください。
「ドアを開けろ!!!!ドアっ!!!開けろぉっーー!!!!」
姿の見えない妻へ、力の限り脱出口の確保を叫びました。
わたしは左手で息子の頭を、耳が遠いため状況を察知できず歩き出そうとする妻の祖母の手を右手で、それぞれ強く握っていました。揺れの凄まじさで立っていることすらままならない状態。目の届かない別の部屋にいる娘と他の家族のことは、一緒にいるであろう妻にすがるような気持ちで任せるほかありませんでした。
この家はつぶれないだろうか、目の前のタンスは倒れてこないだろうか、まだ寝ぼけた息子をどうやって運び出そうか、揺れはいつになったら終わるのか、そういえば今日は正月だったよな、津波の非難はどこへ向かえばいいのか、次は何をすればいいのか、妻は娘は無事なのか…。複数の情報や感情が一気に流れ込んでくると、涙腺が広がり、口のあたりが痺れるように震えだすという人間の反応を知りました。感覚的にはわずか2分程度だったでしょうか。このようにして新年早々、妻の実家で運命を決する時間を迎えることになりました。
結論から申し上げますと、物的・人的損害は奇跡的にほぼ皆無で済みました。具体的な被害について、物的なものは自宅の機械式駐車場やエレベーターがストップしたり、姿見や書籍の転倒や落下があったり、食器棚や引き出しの飛び出しやその他小物類の一部落下による破損があった程度(地震保険の適用もできない程度の小ささ)。しばらく簡易トイレを自作したりもしましたがライフラインの損傷もなく、直後の物資・食料など調達面でも幸いなことに特に支障はありませんでした。一方で人的なものに関しては、全くのゼロです。闘病に関連した治療も障害なく継続できております。なお妻の実家も同様です。
たくさんの方々から、直後であったりお気遣いから落ち着いた頃合いであったりと安否確認や励ましのご連絡をいただき厚くお礼申し上げます。
しかしまさに不幸中の幸いと言えるこの結果は、わたしの自宅や妻の実家がたまたま立地に恵まれていた、ただそれだけのことです。わずか徒歩5分・数百メートル歩けば、断水しアスファルトが波打ちながらひび割れた地域が広がります。そしてそんな状態すらもまだ被害の程度は小さい方で、本当の惨状はTVやSNS等で皆さんがご覧になられている通りです。
わたしの状況としては落ち着きました。そして今思いを巡らせています。それはこのできれば避けたい現実に向き合い、想像と思考と行動のサイクルを、止めることなく回し続けるということ。これが生き残った自分にとって、欠くことができない努めであろうということです。
ところで本論に入る前にまずはブログ主の特権にあやかりまして、少し後ろ向きな弱音を吐かせていただきたいと思います。「こんな時になんてやつだ!」と罵られて十分な自分勝手でしかない、自己嫌悪する内容と承知しています。わたしは阪神淡路大震災も経験しました。そのため幼いころから地震の時は机の下へ、頭を守れ、そしてすぐに出口の確保をしろ等々の発生時の対応についてはかなり教え込まれて育ちました。それがどうでしょう。同じ対応をしたにもかかわらず能登半島にお住いの方々は犠牲者として命を失い、わたしたち家族は生き残りました。まさに“昨日はわが身”です。こんなわたしはこれでも一家の父親です。「今はなかなか手段がなくても、何か役に立てていただけることをしたいね」と妻や子どもたちの前では大人ぶって話をしています。しかし、ここだけの話ですがわたしの弱い部分だけに好き放題言わせるならば、家族を失いかけたこんな恐ろしい目に遭い、正直もう地震の話題自体に触れたくない。それが情けないことこの上ない本音です。
…先にもやもやしたものを吐き出させてもらいまして、さてここからが前を向いた本論です。かく言うのようにわたしの中には地震におびえて萎縮するような“弱さ”があります。しかし同様にたくさんの人達が手を差し伸べてくださったおかげで授かった“強さ”もあります。そしてその強さの源が何なのか、今ならはっきりと理解することができます。それは、わたしは“生かされている”という感覚です。
改めて過去を遡ると決定的な出来事が複数あることに我事ながら驚かされます。今回のような災害でいえば過去被災した阪神大震災。もっとわたしの根本にまつわることでいえば、出生に関わる内容です。それは2つあります。1つは産まれた時に肌が紫色で仮死状態だったこと。もう1つが、実は長男のわたしには流産した兄姉がいたということです。母から聞いたことですが、タイミング的にその方がもし生を受けていたならば、タイミング的にわたしの出番はなかっただろうということでした。そして何よりも具体的に手に取るように理解するきっかけとなった出来事が、がん(癌)です。1年前の23年の元旦はまだに闘病生活のどん底でした。文字通り生死の境界線、命の終わりから折り返した地点です。あの時、投与した薬がたまたま効いたことでまだ生きていますが、本来ならば確実に死ぬ運命にありました。そうして、パラレルワールドの世界線の先として迎えたのが今回の令和6年能登半島地震です。
“生かされている”ことを知ったわたしがまだ“生きている”頃。わたしは「生」に意味を、物事に対して100%(成功)を求めていました。そのため不確定な未来を怖れ、不安や恐怖に苛まれてしまいます。その不安を埋めるためにはさらに生に意味を求めざるを得ず…、まるで負のループのように。常に何かのモノサシでしか自分の価値を見出せない、相対的な心の立ち位置で安定しないメンタルバランスでした。しかしがん(癌)が転機となりました。本来であれば失っていた(もはや一度失ったと言っても差し支えない)命を実感することができました。足るを知るというのに近しい充足感、“生かされている”自分に気づくことができました。“生かされている”と、すでに満ち足りているので、もはや「生」の意味に囚われることもなく、未来(結果)を怖れず、自然と感謝の気持ちになります。自分の心は絶対的な立ち位置(座標)を保つことができます。60%だろうが、30%だろうが十分なのです。“生きている”頃は一生懸命でしたが、その根底には“わたしが”という“おごり”があり、結局それで自分自身を苦しめることになっていたのだろうと思います。
少し遠回りしましたお話を戻します。繰り返しになりますが、状況が落ち着いた今考えること。それはたくさんの人達のおかげで生かされている自覚をし、この地震を決して他人事にせず向き合ってゆくということです。それが自然の摂理であるように。現実問題、個人レベルでは募金ぐらいしか実質有効な支援方法が現段階ではまだ無いように思います。ただしそれも避難状況と並行して刻一刻と変化しているのを感じます。いずれ状況が大きく変わったときに求められるであろう、今とは異なる“寄り添い方”ついて、そしてどのような心持ちで日々を過ごすかということについて、家族で考え続けたいと思います。
“寄り添う”とはどのようなことなのか、あるいはどのような“寄り添い方”があってそのうちの何が自分たちにできる形なのか。日々のニュースや世の中のコメントなどを見聞きしていると様々な思いが巡ります。思いやりの心から始まっているはずがどうして…、というような中にはまるで“パラドックス”のように見える事柄も…。次回以降は次の行動やそのための準備、また頭の整理を兼ねてそのような話題に触れていきます。
今日もお付き合いいただきありがとうございます。
ではまた。