過去を自負することは、“今”の感覚を鈍らせ歩みをとめようとします。
春到来のスピード感にとまどうほどの陽気となってきました。流れるような雪解けの勢いが春の予感を伝えてくれたのがずいぶん前かのようです。
そのころの妻の誕生日、天気にも恵まれたので、近くのケーキ屋さんへ散歩がてら出かけることにしました。4歳の姉はお気に入りのちょっと大人びた茶色の、1歳半の息子はおさがりの黄緑色の長靴を履いていきました。だいたい距離にして片道1km強でしょうか。手をひきながらも往路を歩ききった息子の健脚におどろかされました。頑固な態度しばしばみせるようになりましたが、それにつりあう身体の成長も著しいと感心するばかりです。
とはいえ買ったケーキもわすれて、復路と帰宅後も力尽きたように熟睡の息子。いっぽうで、手洗いも早々にしっかり食べ終わってから寝たお姉ちゃんの力量に比べれば、依然その差はずいぶんとあるようです。
さて、今日はわたしがとても好きな歌詞にまつわるお話です。
明治安田生命CMソングといえばのこの曲です。間奏の後の最後のサビのところになります。
君は空を見てるか 風の音を聞いてるか
もう二度とこゝへは戻れない
でもそれを哀しいと 決して思わないで
~たしかなこと~ 小田和正~
妻と付き合って間もない頃、とあるトラブルで傷つけてしまったことがありました。この曲を聴くたびに、決意をCDにかえて手渡した思い出がよみがえります。わたしに悪意がなかったとはいえ、まさに破局の危機でした。妻はひとつでもいやなところが見つかると、すぐに冷めてしまう性分だということを事前に聞いていました。とはいえ、ちょうど打ち解け始めてこれからというときだったとおもいます。そんな妻に伝えたかったことは、今から変わることでひらける未来をみてほしい、ということでした。
妻とお付き合いすることで気づき、結婚生活を続ける中で確信したことがあります。それは、現状を維持することは変化の連続であり、ダイナミックだ、といういことです。
少し昔のお話になります。わたしには学生時代におなじ大学の彼女がいました。妻とは別の人で、真正面から向き合った恋愛はこの方が初めてです。しかし当時は学生時分の血気盛んな性分。情熱こそあれど、どうしても自分の目で見える世界でしか向き合うことができません。そしてその自負は結果的に彼女に向かうわたしの熱を冷ましてしまいました。一度消えてしまうと、いかんせん火のつけ方がわからないのが男女のほんとうに不思議なところです。
社会人になっても遠距離ながらしばらく関係はつづきました。しかし形だけの空回りした関係は互いによくないとおもい身勝手にもわたしから別れを切りだしました。
その後、仕事で社会の様々な人にもまれるなかで、ひとりよがりの自分を思い知りました。相手は生まれ育った今に至るすべてが自分と違います。そんな相手にわたしのものさしを押しつけていたこと。自分は相手のことをわかってあげることができるという過信。おこがましい姿勢の数々の場面を振り返りました。この気づきをくれた人達がいなければ、わたしは妻と自分へ誠実に向き合うことから目を背ける日がおとずれたかもしれません。
仕事でも共通しています。たとえば、これまでにすばらしい成績をのこしたとします。それらはあなたにとってどのような意味をもつでしょうか?
なにかを成したとき、積み上げたとおもうことをやめました。それは言いかえると自負することをやめることです。なぜなら、過去を自負することは、“今”の感覚を鈍らせ歩みをとめようとするからです。過ぎ去った事実はすがり付いたとたんに、まぼろしの安らぎとなってあなたを守るふりをしてその場に足止めし惑わせます。のりこえようとするものに対峙するとき、あなたは過去ではなく“今”にしかいないはずです。またそのことは縛りつけているあらゆる枷をはずして、行動するためにこころを軽くすることにほかなりません。
うつ症状で休職したとき、たくさんの人たちがわたしを助けてくれたのは過去の成績があったからではありません。もがきくるしむ“今”のわたしの姿をみてくれる人たちが周りにいたからです。そして後押しをみなもとに、“今”の行動がわたしを日々変化させています。
未来に見据え、今を行動し、過去に在らず。
心身共に健康な毎日を過ごすことは、単調のようでじつは変化の連続でした。空をみあげ風にふれてみてください。あなたにとってたしかなことを、“今”がふきこんでくれるのではないでしょうか。
余談です。冒頭のトラブルのとき、あわせて妻に送った自作のフォトフレームは今もリビングにたたずんでいます。徹夜のせいでまぶたの引きつりがしばらくとれないほど苦労しました。いましめもだれかの笑顔になる過去であれば、ときに懐かしみを込めてながめることはやぶさかではありませんね。
今日もお付き合いありがとうございます。
ではまた。