忘れてはいけないのが、“なんのために治療しているのか”、
またしても前回の投稿からずいぶんと日が経ってしまいました。前回の日付を見ればあっという間に4か月近くも…!当ブログの更新が滞れども、肝心の治療はおおむね順調です。
どれぐらい順調だったかといいますと、それは例えば、抗がん剤の濃度が目標の85%ほどまでクリアできたり、頭を悩ませていた毎週の腹水穿刺による排水を1か月もせずに過ごせるほど改善兆候がみえたこともありました。さらにそのように安定した病状のおかげもあって、満を持して5年ぶりに遠方の実家へ帰ること、さらには祖母宅へ4歳になった息子を初めて連れ帰ることも叶いました。また小学生以来の友人たちが忙しい中わたしを訪ねてくれて、病気のことなど忘れるほどの生き生きと弾むような時間を満喫することもできました。
まさにいいことずくめ!と言っても過言ではない日々を過ごしております。ですが冷静にみればやはり病人だと思い知らされることが多いのも事実です。腫瘍の大きさはCT画像では変化はなく、普段通りの生活をしていたつもりが新型コロナに感染し、ただの風邪かと思えば知らぬ間に肺炎に悪化して入院2週間強。
おかげで退院して早2週間以上となりますが、まだ後遺症で声が出にくく、嚥下機能の低下で毎食むせて咳き込んでおります。やはり毎日都合の良いことばかりというわけにはいかないものですね。
というわけでちょっと長めの前説はここまで、以下より前回の続きです!
③転換期 できることを無理せず実行。重要な治療行為としての“動く”。
がん(癌)は症状や副作用等、何においてもたいへんに個人差が大きい病気のため、あくまでわたしという数多ある中の一例ということはご留意ください。そのうえでこの期間を一言で言うと、悪化が止まった後の期間ということです。わたしのケースでは4番目の投薬の後ようやくCTなどの客観的データに基づき効果ありと判断されることとなりました。これまでわたしを内側から食い荒らしていたがん(癌)がピタッと活動を止めたのです。まるで手のつけようのない飢えた野獣が、「待て」の命令に従順な訓練犬に生まれ変わったかのように。今まで通りの場所に腫瘍があることに変わりないのですが、活性が落ちたといいますか、長い眠りについたかのごとく様変わりしました。ちなみにこの転換期含む区分けはわたしの振り返りに基づく便宜的で私的な呼び名です。この期に入ったとしても、病名やステージなど数値的な変化とは別の指標とお考えください。ただわたしの場合は、同時期に肺転移が縮小&減少しました。加えてそれ以上に大切な回復指標である、はたから見ていて容体がラクそうになったという定性的な変化が起きました。さらにわたしがこの転換期という分類をしたわけは、本人の意識の中でもっと大きな変化が生まれるからなのです。その正体は、死の恐怖から解き放たれることによる心安らぐ時間の復活です。具体的には例えば、ご飯がおいしく食べられるようになる、どこにも痛みを感じることなく座っていられる、一人で過ごす夜の時間が恐ろしくなくなる、などでしょうか。恐怖が取り去られることで心の健康は大きく改善され、忘れかけた当たり前で普通の日常生活に感謝しては無性に満たされるという、ある意味「聖人モード」みたいなメンタルに突入するのです。
このように健全な心をひとまず取り戻すわけですが、次は気になる身体への影響を考えます。これもまさに転換期と呼ぶ理由なのですが、このタイミングは回復において最大のチャンス到来であると言えます。なぜなら、原動力の心が回復するだけでなく、これまで活動を抑制してきていたがん(癌)による身体的妨害&弱体化が止まる(少なくなる)からです。それらは倦怠感、食欲不振、吐き気など、人を動けないようにして弱らせる作用たちです。つまりようやくここにきて逆回りしていた時計針を元のに向きに戻すことができるようになるのです。
ところで、あなたがこんな声掛けをするような場面をちょっと想像してみましょう。「そんな体なんだから無理せんと休んどきなさい。やっといてあげるから。」と体調を崩した方に声をかけるような場面です。こんな優しい気づかいができる人にわたしもなりたい。実際にこういう方が近くにいらっしゃるのはたいへん恵まれたことだと思います。わたしの場合は、よく母から何につけてもこのように心配をされることが多いです。母の無償の愛を思い知らされるとは、とこの歳になって染み入るほどでした。た・だ・し…、ここに落とし穴があるのです。これはやむなく本人にも伝えましたが、実はこの言葉をがん患者に対しておっしゃるのならば、少々話が変わってきてしまいます。本当に疲れている方、悪液質や猛烈な倦怠感などで何をするにもきつい症状の方などは当然対象から除きます。ですがそうでなく特にこの回復期に入ったあと、きっと辛いであろうがん患者というだけで贈る言葉と奉仕であるならば、その意図するところとは無関係に半分は正解ですが半分は大きな間違いとなりかねない可能性をぜひこの機会に心に留めてみてください。
なぜ半分は間違いなのか、決して道徳的な観点からではなく、この理由は闘病生活の目的である病気からの回復という視点から適切でないからです。がん(癌)は先述のように、体中の栄養分や脂肪を奪い取って、ついには筋肉まで分解していきます。さらに経口摂取も阻害して栄養素を体外から補給させないようにするのです。するとみるみる体中の筋肉の筋肉が削ぎ落ちてやせ衰え、最終的に運動機能を奪い去って死に至らしめるのです。やられたらやり返す、というドラマが昔流行りましたが、そんな日々から一時離脱して1日でも早くその負け分(筋肉)を取り返さなければならない中で、ようやくこちらに回ってきたチャンスがこの転換期なのです。どうかここは本人のために自分でできることは極力自分でやるクセをつけていただくことをおすすめします。日常の小さな動き1つ1つが明日を変える十分なリハビリになるのです。患者本人からすれば、すでに痛めつけられた体ですから優しい言葉をかけられればついつい楽な方に甘えるのが人間ですよね。これが先ほどの優しい気づかいが大きな間違いとなってしまう理由です。“正しい知識を伴わない善意”は、意図せず患者さんの生きながらえる時間を奪う“悪魔の言葉”となりうる危険をはらんでいるのです。
…とはいえ、もしかすると皆さんにはちょっとおおげさに聞こえるかもしれませんね。それは健康な証拠でとても喜ばしい証拠です。ただ、転換期を迎えてから1年9ヶ月ほどかかって、30代のわたしがまだ業務復帰や以前のような歩きができない現実を考えると、この病気で一度失った身体能力の回復にどれだけ時間がかかるかということが思い知らされるところもあります。
④回復期 QOLの充実に重きを置き、治療の目的を見失わない。
さて、転換期を迎えてから腫瘍の活性がおさまるとある程度の若さもあったわたしはありえないような食欲を発揮しだしました。もう、干からびた砂漠に水を垂らすようなものですね。朝から絶好調で白飯5杯、昼はラーメン具全盛を2杯、もしもお供に明太子とみそ汁があれば無限の白米が摂取できるのでは、と本気で思えるほどの食欲でした。一時はスマートフォンが重くて手が疲れるような貧弱なからだになったものの、経口摂取できたおかげで効率的に栄養を摂れたため回復はスムーズな方だったのではないでしょうか。また日常生活の小さな所作や身の回りの家事はできるだけ自分でやるように取り組みました。最初の内は歯磨きから、というようなレベルですが(笑)。ただそうした小さなリハビリを精神的に疲弊することなくお継続することがいつ終わるかわからない貴重な回復期にとってはとても重要なのです。毎日全身の筋肉に電気信号を出してやり感覚を取り戻してゆく。スクワットなどの筋トレもやりましたが、達成感や幸福感が最も高かったのは、身の回りの所作や家事で負荷強度的にも最適なのではというのがわたしの感想です。
さて手段は数あれど、忘れてはいけないのが、“なんのために治療しているのか”、であり、わたしが闘病生活で思い知らされた気づきになります。あなたならなんとお答えになりますか。病気を治すため?がん(癌)を小さくするため?そう思ったアナタ、それは…大きな勘違いです。闘病当事者になればついついそう本気で考えしてしまいがちです。たとえば、休まずに治療を受け続けなければならない!と錯覚しえ辛い副作用に痛めつけられながら自分を追い込んでしまう人がいます。1日中吐いて、体も動かなくて、憂鬱で…。苦しまないと治療とは呼べないのでしょうか、そんなはずがないでしょう。いくら抗がん剤でもしんどいときは休薬して、痛み止めの医療用麻薬も痛くなくなるまで使えばいいんです。事実1~2週間程度であれば、投薬休止をドクターに相談してストップされたことなど一度もないのです。わたしの場合は、1ヶ月強休薬はなんともおりませんでした。
先の問いの答えは、健康な頃の「どうしてあなたは働くの?」という問いにおいても同じ答えになるかもしれません。ほんとうはとても簡単なことなんです、“楽しい生活、楽しい思いをあなたがするため”ですよ!楽しい思いを、気持ちい思いを、おいしい思いをするためですよ!生きること自体に意味は無いと考えるタチですが、生きる目的はあってこれこそがそうです。おそろしく簡単すぎて、信じられないことにいつしか忘れ去られてしまうというパラドックス。ひいては、あろうことか良かれと自らをひどく責めて傷つけ出すことさえある始末。病気を治すことは目的に達するためにある数ある手段の単なる1つにすぎません。手段を目的化してしまっては、待つのはただ路頭に迷う日々です。
最後に突然ですが、流れ星の話をします。今回書いたようなことが頭をよぎるときに、すっと蘇るように重なる光景がわたしにはあります。それは子供のころ、とある山の高いところに作られた展望公園で夜に見た、人生でもっとも輝いた流れ星の姿です。その輝きときたらしばらくびっしり筋が残って夜空の向こうを一閃に切り裂くほどの見事なものでした。わたしがそうであるように、その様子に見る者は美談としてこれを語り、はかなさと美しさを皆に伝えることでしょう。しかしこれはこの光景の途中まで、一側面からしか実は語られていません。気にも留めない続きがまだあるからです。大気圏を突き抜けながら迷いなどまるでないかのように輝いた流れ星は、そのあと跡形もなく燃え尽きます。いくらその燃え尽きる様がいかに美しくはかなく皆の目に映れども、消えた後には塵1つ何も残りはしません。ただ見る者たちを静かに置き去りにするだけです。流れ星のような人生の形ももちろんありますし、否定するつもりもありません。大切なのはあなたの正直な心とそれと矛盾しない行動(体)です。身を削ってしか輝けない人生を本当にあなたは望んでいるのでしょうか。わたしにもそしてあなたにとっても、残された時間は、そんな流れ星と同じものだけでは決してないはずです。よろしければ次にふと夜空を見上げる機会になど、今あなたの心に浮かんだイメージとちょっとだけ重ねていただけましたらこれぞブログ冥利に尽きるというものです。
毎回思いますが、もう少し更新頻度を上げていきたい!ちょっとなにか打開策を考えてみようかなと試行錯誤してみたり。
今日もお付き合いいただきありがとうございました。
ではまた。