モノ(媒体)といかに純度の高い主従関係を構築しているか、その完成度の見事な有様を讃えて“おしゃれ”と呼ぶのではないでしょうか。
さて前回の更新からおおよそ2週間…。目標期限的にはなんとかすべりこみセーフといったところでしょうか。
さて前回の更新よりとっても嬉しいことがありました。ついに濃度を上げていた抗がん剤をついに100%濃度で投与を完了することができました!(イリノテカン+トラベクテジン)当初は2週間の生き地獄を見たあの悪魔の薬(実際そういう異名も昔はあったそうです)が、こうも医療の進歩で牙をぬかれることになるものとは、驚きを禁じ得ません。また医療の功績を差っ引いたにしても、人間の体の底力とでもいう“慣れる力”にはほんとうに脱帽です。
医学論文ではこの24年現在においては、今のこの治療が最も効果が高い治療法だと言われています。例えばこれから復職がどうなるのか、会社との雇用形態はどのようになるのか、どこまでの両立が可能なのか、課題が山積した生活再建の道はやっとスタートラインに立てたかどうかというところです。ですが希望を託せるだけのチケットをまずは手に入れることができました。その事実が、喜びが、おのずと活力に変わっているのをこのところは実感しています。
さて、そんな本日は例の企画第二回目です。それではどうぞ~。
表組テーマ(2):どんなものを”おしゃれ”と呼ぶ?
“おしゃれ”とは感覚的なものだ。そこであえて抽象的にいうとそれは、本人と表現媒体が全体的にまとまっていて、違和感がなく整合的であることです。
一般的には、流行や最先端をどれだけ取り入れられたか。あるいはヒト、モノ、カネ、こだわりをどれだけ投入できたかなどが注目されています。つまり、本人や媒体が獲得したポイントのようなものがトータルで評価されているようなイメージでしょう。だから、オシャレは媒体に備わるように付与された価値として扱われることになるのです。
ところが、そうではないのではないでしょうか。本人と媒体の相性あるいは関係性の投影純度とでもいうような実は相対的なものではないかというのが、今回の主張です。なぜなら、いくら素敵な服でも似合う人とそうでない人がいるのはどうしてなのか。それはモノ単体だけでは計り知れないことを意味しているからに他なりません。例えば、本人の先天性や目に見えない内面を、媒体の選択を通していかにシンクロさせて現実に映し出しことができているか。つまり本人とモノとの関係性がが大切で、これがおしゃれかどうかを左右することになるのです。また本人との関係性という相対的な性質のため、同じ人であっても年齢や成長と共にその人にとってのおしゃれが変化するのは必然になります。
そもそもではありますが、不潔な感じがしないだとか差別的でないなどの基準をクリアしていることは大前提です。本人の性質をさらに際立たせることになるおしゃれというものさしにおいてもそれは例外ではなく、生理的に人から嫌われる事柄が評価されないのは言うまでもありません。モノに主導権を奪われている状態ではおしゃれからは遠ざかってしまいます。そのような人が投影される試みに価値や魅力は生まれにくいでしょう。
まとめると、内面外面含むあらゆる要素に向き合い、導き出したゴールへ皆が向かおうとする時々において、その表明手段としてモノ(媒体)といかに純度の高い主従関係を構築しているか、その完成度の見事な有様を讃えて“おしゃれ”と呼ぶのではないでしょうか。
以上
あなたにとっての“おしゃれ”とは?
おしゃれに目覚めることは自分自身の理解の深まりの表れかもしれません。
病気で体形が変わってしまってこれまでのお気に入りの服が着れない期間がありました。たかがおしゃれですが、されどおしゃれ。いざできない、選択肢を奪われてしまうと大変生きにくさを感じるものです。環境負荷をかけ過ぎない程度に、彩り豊かな毎日になりますことを!
今日もお付き合いいただきありがとうございました。
ではまた。