病人冥利に尽きるといいますか、はっきりと病気によるメリットと言える______、
かけがえのない有難味を感じた次第です。
久方ぶりに地元のメンバーがお見舞いがてら集まってくれました。その中の1人の希望もあって、今回はコテージ的なものを借り切ってBBQという季節的にギリギリのナイスイベントの開催と相成りました。現金なもので、こういう時の体調は不思議と安定してくれるものです。昔話に花を咲かせながら、季節の幸を豪快にいただくことができました。
ただ驚くべきことに、来てくれた友人のうちの2人はなんと20年ぶりほどの再会でした(中学校か高校、はたまた成人式か?)。当時の部活動仲間なわけですが、本当に不思議なめぐりあわせと言わざるを得ません。正直病気になっていなければ、おのおの日々の喧騒にあけくれていて、こうして集まることなどおそらくなかっただろうからです。適切ではありませんが、これは病人冥利に尽きるといいますか、はっきりと病気によるメリットと言える側面だと喜んで受け取っています。
そしてまた良いのが地元の友達って、どうしてこうも時の隔たりを感じさせないのでしょうね。話す分にも意識のかみ合わせという雰囲気的なところも、まるで差し支えるところが無い。ついこの間ぶりかのようななめらかなセッションの再開に、かけがえのない有難味を感じた次第です。
そんな素敵な時間を過ごした後ならば、辛い投薬であっても大義名分のもと立ち向かえるというものです。
さて、それでは本日のテーマはこちらです。
表組テーマ(4):差別と区別ってどう違う?
実施されることによって、された側の環境には変化が起こります。またその実施過程において、一人一人の細かい事情よりも集団としての共通事項に着目するため、個人よりも全体を優先して行われます。そのため差別と区別はいずれも個別の不満までは対処できない構造となっており、個人的な差異に考慮するには限界があることが前提となっています。
では次は両者の最も大きな違いについて注目します。それは端的にいえば、「すでに問題が発生しているかどうか」です。区別は「分けることで発生している問題を解決する」取り組みであり、差別は「分けることで新たに問題を発生させる」取り組みだと言い換えられます。分けることで全体利益をもたらすのか、はたまた不満や混乱をもたらすのか。ただし、厄介なのは差別であってもこの特徴をまるで満たしているかのように偽装することは容易な点です。例えば、昔の日本からある穢多・非人という身分があります。これは簡単にいえば、苦しい生活を強いられる農民よりもさらに低い身分をつくることで、その不満をそらすためのものでした。農民の不満というすでにある問題を解決するために生み出された区分けです。ということは…区別?しかしながらこれは一般的な感覚からしても紛れもない差別にあたる行いでしょう。
このような事例から、両者を見分けるにはさらなる判断基準が必要だとわかります。そしてそれはどうやら少なくとも2点はあるようです。①「問題と属性の論理性」と、②「結果(利益/不利益)の入れ替え許容性」です。ではここからは穢多・非人という「差別」の例に加えて、オリンピックの種目が男女別であるという「区別」の事例と比較しながら検証します。①「問題と属性の論理性」は、発生している問題と区分けの対象となる属性の間に因果関係などの論理性が担保されているかどうかという点です。穢多・非人の例では、彼らのような職業事情と農民の不満とが取って付けたものでリンクしておらず、もともと解決のために対応しているとは考えられません。一方で、オリンピックの例では選手の安全面や競技の公平性などの目的を満たすために、男女の体格差が直接要因として関係して問題に対応する属性であることがわかります。改めて簡単にいえば第一のポイントは、その分け方でちゃんと問題解決できますか?という点です。
次に②「結果(利益/不利益)の入れ替え許容性」については、区分けによって受ける結果(利益や不利益)の当事者を誰にでも入れ替えることが可能かという点です。例えば、穢多・非人の区分けによる結果である非人道的な扱いについて、武士と呼ばれる人達は受け入れられるのか、農民たちは受け入れられるのか、という点です。もう一方の例の競技者を分けるという結果については、例えば男女という属性だけでなく、子どもと大人などの違いでも目的のために問題なく受け入れることができるといえるでしょう。こちらも簡単にいえば、代わりに自分がそうされることになっても仕方がないですか?という視点です。どうしようもないことですが、他人事となれば比較的簡単に残酷になれてしまうのが人間の性なのです。
さて、このように差別と区別の違いはいくつかあります。問題を解決するためなのか、はたまた引き起こそうとするものなのか。またその分け方は論理的に正しくて、分けた結果は自分自身であっても受け入れることができるものか。思考するというのはとてもエネルギーを必要とする行為です。そのため日常生活をより効率的に行うために、ついついわたしたちはステレオタイプ(固定概念)で相手や物事を深く考えることなく見切ってしまうきらいがあります。わたし自身にもずいぶんと反省すべき思い当たる節があります。その物の見方は果たしてより良い明日に貢献するのでしょうか、面倒にかまけてあなたを狭い窮屈な世界へ追いやってしまってはいないでしょうか。差別と区別について考えることは決して非日常の遠い話ではありません。見える世界を大きく左右することになる、誰しもが無関係とは言えないテーマで在り続けるのです。
以上
最近YouTubeで野食ハンターの方のチャンネルをよく見漁っています(参考:野食ハンター茸本朗(たけもとあきら)ch)。その方は日本や海外の古き良き食文化や消えゆく食習慣などに、“野食”という普通の人が口にしにくい食材を通してスポットライトを当てていくというとても興味深い活動をされています。そしてシンプルに食レポがとってもお上手。聞いているだけで投薬中のがん患者の食欲がわいてくるほどです(笑)。
よく出てくる食材というのが、すぐにリリースしてしまったり捨ててしまう未利用魚であったり、山菜であったり、ジビエで会ったりするのですが、海釣りがとっても楽しそうなんですよね~!かくいうわたしもこの病気になる直前ごろからご縁があってイカ釣りを教わり釣り人ライフを始めていたのですが、この病気で縁遠く…。深夜の時間帯になるイカでなくとも魚でもいいのでまたトライできるぐらいになりたいなぁと1つ夢を膨らませています。登山、ゴルフ、釣りと、とりあえずやりたいことだけは続々増えてきました。そして何より一時の危機的状況とは異なり、どれをとっても実現可能性が0ではないという当たり前に並々ならぬ思いを感じるところではあります。
今日もお付き合いいただきありがとうございました。
ではまた。